インテルやカルチョに関する話題多め
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エル・ブランコには夢がある。

マドリディスモの実現と継続

という、とてもシンプルで、あまりにも難解な夢だ。


私事で恐縮だが、筆者がこの世に生を受けたのは1982年。
親の影響でフットボールを見・やり始めるも、若いころは他のことに夢中で、本格的に入れ込むようなことはなかった。

意外に思われるかもしれないが、本格的にTV・スタジアムでフットボールを観戦し出したのは、せいぜい5~6年ほど前。
欧州のそれに手を伸ばしたのは4年、セリエAとインテルに執心するようになったのはわずか3年前のことである。

そんな自分であるから――
本当の意味で、このエル・ブランコの持つ夢の形、あるいは宿業、呪い・・・
そういったものを理解できているのかどうかは疑わしい。

だが、その特異性、独自性に関しては、もはや知識ではなく感覚的に理解しているつもりだ。


常に華麗たれ。

唯一無二の星であれ。


半世紀以上に渡って、レアル・マドリードはフットボール界において、特別な存在であり続けた。
自分が生まれる前、はるか昔から人々の心に刻み続けられてきた『マドリディスモ』の重みは、筆者ごとき若輩が語るにはあまりにも重厚で複雑なものだ。
それを信条として、あるいは崇拝して生活している人々――マドリディスタ――と直に触れ合った経験すらない自分に、果たしてそれを語る資格はあるのか?

過去、何度となく自身が感じていたこの“違和感”を口にしようと思ったことか!
にも関わらずそれができなかったのは、ひとえにその歴史の重みを計り兼ねていたからに他ならない。


だが、そろそろ頃合いだろう。
今持ってその歴史の重みと、存在感そのものすら掴み切れていないのは事実だが・・・
その決定的矛盾に言及しないでおくことに、耐えることにも疲れてきた。

世界に億単位で存在するマドリディスタたちに問いかけたい。

この“矛盾”をどう見るのか?
と。

バルセロナに関する私見の次は、レアル・マドリード・・・というわけで。

Helk・クラシコ』のもう片方の主役、エル・ブランコについて話を始めよう。


●エル・ブランコの宿業――『最高』――

疑問の発端はフットボールを本格的に観戦し始める以前、なんとはなしに
すぽると

スーパーサッカー
で欧州フットボールシーンの様子を垣間見ていた頃に遡る。

『銀河系』と銘打ち、次々と時のスターを乱獲していくレアル・マドリード。
その豪奢な顔ぶれを、当時は“10番と6番の違いさえ明確にわかってはいなかった”自分ですら、感嘆と共に見ていたものである。

だが、それにしてもおかしい。
ベッカムを獲得した辺りで、

「おいおい、これ以上スター選手を増やしたって、11人しか試合には出れないんだぜ?」

と感じ、オーウェンを獲得した際には

「・・・なんで必要なんだ、ここでオーウェンが」

となった。
その時、父から聞かされた言葉は、今でも自分の心に鮮明に刻まれたまま残っている。



レアル・マドリードは、勝つことが目的のクラブじゃない。

世界一であることが目的のクラブなんだ




――断っておくと、筆者の父はフットボールファンではあるが、もっぱら国内専門。
川崎フロンターレに並々ならぬ愛情を注いではいるが、スポーツニュースでJリーグに先立って海外フットボールの話題が報道される現状に、

「また海外か、いいから早くJリーグを映せ!」

と苛立ちの声を挙げるような人物である。
自分から海外の情報を収集することは皆無で、日本人が多く欧州にその活躍の場を求めて旅立っている現在ですら、国内蹴球以外の話題に自分から触れようとはしない。
彼が海外の一流選手のプレーを自分から観戦するのは、もっぱらワールドカップやEUROの時ぐらいなものだ。

が・・・

それだけに、説得力があった。
海外の情報を忌避すらしている父が、あくまでも淡々と語った現実。
それほど、フットボールファンの間で周知となった、当然のように認識されている事実。

彼なりの確信を持って発せられた言葉だけに、その内容にある種の完全な説得力を感じたのである。


それから数年後、紆余曲折を経て、自分は『マドリディスモ』という単語を知る。
そして現在まで、どうにも捉えどころのないその“概念”が何なのかを研究し続けてきたわけだが・・・

至極私的な結論ということをお断りした上で言おう。
マドリディスモとはつまり、

最高の選手たちが、最高のフットボールを魅せつけて勝利すること

ではないだろうか?
少なくとも、これまでに報じられてきた関係者の証言、自分が手に入れた数々の情報。
そして同クラブの現在地を見るに、これは“当たらずとも遠からず”といったところと思う。


ここには、大きく三つの意味が内包されている。


まず最初に、“最高の選手たち”だ。

フロンティーノ・ペレス発『ガラクティコス(銀河系)』などは、マーケティング的性質を多く持ちながらも、突き詰めればここに端を発するものである。

ペレスが復権する以前の過去数年間、有望な若手を補強し、それを基本骨子として頂点を目指すカルデロン政権が行ったプロジェクトは、往々にしてマドリディスタたちを楽しませなかった。
無論、結果が出ない(取り分けチャンピオンズリーグでの不振)ことへの不満もあったろうが・・・
最大の理由は彼らの心中に、

こんな有象無象の選手に大金をはたいて、フロントは何をやっているのか?

という苛立ちがあったためではないか――と筆者は思う。



スナイデル、ドレンテ、ガゴ、マルセロ、イグアイン、フンテラール・・・
何人かは去り、何人かは残った。
経緯も異なれば、現在地も違う彼らに共通していたのは、

“いわゆる若手に属する、近未来の超ワールドクラス候補生たち”

という一点。
しかしそんな彼らの加入は、一定の成果こそ得ながらも、決して拍手喝采を浴びることはなかった。

時を同じくして、否――こちらは現在進行形で続いていると言えるか。
かつてチームの根幹を成した生え抜きのタレントたちは去り、今日トップチームで確固たるポジションを築いているのはイケル・カシージャスのみという、いっそ清々しいまでのカンテラ軽視。

昨今の世界的な不況さえなければ、ここ数年の大不審さえなければ、そしてジョゼ・モウリーニョの指揮官就任さえなければ――
彼らは、ペレスは今シーズンも、超ワールドクラスのスター乱獲に走っていただろう。

何故彼らは、こうしたマネジメントに終始するのか。


話が前後して恐縮だが・・・
皆様はここでいう『最高』とは、果たして何を指していると考えるだろう?
正確には、“『最高』の基準”がどこにあるか、だ。

自分はこれを、先日も代表論の中で触れた、

国家ごとの文化的価値観・アイデンティティ

に求める。
スペインは一口に『スペイン』と纏めることが憚られるほど、入り組んだ歴史を持つ国家ではあるが、フットボールに関する趣向という点では、一定以上の方向性を見出すことができる。

例えばそれは、失点より得点を優先するものだ。

例えばそれは、華麗なパスワークと豪快なゴールを、喝采で迎える瞬間だ。

無論、クラブごとに差異は存在するが・・・
それでも“攻撃性の高さ”という点で、かの地で生活を育むほぼすべての人達は、その歓びを共有している。


なればこそ。
最高の選手』で組織されることを目指すレアル・マドリードというクラブが、世界中の名だたるアタッカーを買い求めるのは宿業とも言える事態だったのだ。

ビセンテ・デル・ボスケの解任など、多くの物議を醸したペレスのクラブ運営だったが、ことスーパースターたちの乱獲(と、筆者の感覚では称さざるをえない)に関して言えば、驚くほど好意的な意見が多いことに驚かされたものである。

故に、例えばクロード・マケレレのような、フットボールの素人が見ても極めてその能力・魅力が解りづらい、汗かき役の肉体労働者などは、同クラブでは正当な評価を得られることはない。



現在で言えばラッサラ・ディアッラであり、サミ・ケディラだ。
彼らはどれほどチームの勝利に貢献しようと、ひとつの試合で決定的な働きを披露しようと、マドリディスタの大半からは

「ああ、今日はよくやったね」

程度の評価しか勝ち取れない。
いわゆるイタリアで言うところの“インコントリスタ”、危機察知能力に秀でたボール奪回者、潰し屋は、エル・ブランコというクラブでは永遠に正当な評価を勝ち取ることは難しいだろう。

彼らにとって美徳とは“攻撃”であり、彼らが中盤センターに求める理想の選手像とは、即ち

奪回したボールを、即時攻撃に結び付けられる者

に他ならない。
シャビ・アロンソはその意味で完璧に近い活躍を披露しているが、彼が躍動するためにバランス取りにラス、ケディラらが執心して走り回っていても、その献身は決して正当な評価を得ることはない。


これらの話を総括すると、結論はこういうことになる。

彼らは自らの美学の追求だけではなく、大衆にもそれと認識される「最高」でなければ、満足できないということだ。
自己満足と他者の羨望、両方の条件を満たす選手でなければ、彼らにとって本当の意味での「最高」にはなり得ない、と言うことができる。

最高の選手とは、即ちそのポジションで、現在世界最高の評価を受けている選手に他ならない。
同時に最高の選手とは、彼らの“価値観”を満足させる選手でなければならない。

自他共が認められる超ワールドクラスでなければ、真の意味でマドリディスモの条件を満たせる選手にはなれないということになる。



第二に、“最高のフットボール”である。

これは前述した選手たちについての評価以上に、マドリディスタの好みがダイレクトに反映されることになる。

先ず攻撃有りき

――この根幹部分は、何があっても揺らぐことはなかろう。
だが、その次にくるものが問題だ。

ポゼッション?否。

ハードワーク?断じて否。

彼らの求める“それ”が何なのか、考えに考えを続けて得られた自分なりの解答は、

全方位攻撃性

とでも呼ぶことにしようか。

具体的に言えば、自分達がボールを保持していようと、相手から奪い返す段階から物語が始まる場合であろうと、念頭には常にゴールを置く。
前者であれば手数をかけて相手の守備を崩し、華麗にそこを突破する。
後者であればむしろ手数をかけず、相手が反撃もままならない間、あれよあれよと混乱している隙にゴールを得、ゲームを簒奪することにある。

絶対の優位。

徹底した侵略性。

ピッチ外の要素、例えばスペインという国家の成り立ち、マドリードという首都が果たしてきた役割と、そこにあったもの・・・
そしてレアル・マドリードというクラブの、同国における位置づけ。

すべての材料を加味して考えた結果、自分なりに出した解答がこれである。

・・・失礼。
これだけ言っても、なかなかそのイメージは伝わりにくいだろう。
わかりやすいのは、最も身近な比較対象とその内容を比べることだ。

例えばバルセロナは、ゴールの過程に“積み上げる”ことを念頭に置いて活動している。

彼らの目指すものは、何もスーパーゴールである必要はない。
ボールを動かし、人を動かし、相手を動かして発生したスペースにパスと繋ぎ、ドリブルで切れ込み・・・
一連の各種活動を繰り返して、極論から言えば相手GKさえ“出し抜いて”ゴールを決めることを理想としている。

勿論、そこに一定以上のファンタジーア――例えばメッシのそれのような――は存在するのだが、それはあくまで

集団で崩す

という大前提を侵すものではない。
集団でこじ開けたわずかな隙に個人が斬り込む、あるいは個人が作り上げた局面から集団で蹂躙する。
少なくとも現在のチーム、ヨハン・クライフが提唱した

「トータル・フットボール」

の心酔者であるペップ・グアルディオラが率いるバルセロナに関しては、間違いなくこの意識が浸透している。




一方、マドリディスモにおいて求められる攻撃性は、これとは些か以上に異なるものだ。

彼らはスーパーゴールを欲している。
無論、集団で崩す意識もあるにはあるのだが、バルセロナのように“崩しきる”ことに、彼らはそれほど重きを置いていない。

むしろ“崩れかけた”蟻の一穴に素早く「錐」を打ち込み、GKが“成す術なく”シュートがゴールに突き刺さっていた――
そんな展開こそ理想的だろう。

あるいは、ボールを奪った瞬間、前線の選手が走りだす。
さながらトリガーに指をかけられた状態で発射を待ちわびていた弾丸が、待ってましたと飛び出さんばかりにだ。

必死に喰らいつこうとする相手を一人、二人、三人とかわしてのゴール。
今まさにマドリー側のゴールを脅かさんとしていた相手を、希望から絶望の底に叩き落すような圧巻のカウンター・・・

こうした直線的な鋭さを求める傾向を、自分はマドリディスモから感じ取っている。

過去"ブロンドの矢"、アルフレッド・ディ・ステファノに始まり(文献でしか知識にはない選手だが・・・)、その後も2人のロナウド――言うまでもなく元祖フェノーメノと、CR7のことだ――やカカーを獲得する一方、空前のファンタジスタと呼ばれたロナウジーニョには手を伸ばさなかった。

あくまでも、自分の感覚的なものだが・・・
バルセロナが「崩す」ことを信条とするのであれば。

マドリーにとっての原点は、「貫く」ことではなかろうか。

しかも、あくまでも攻撃に重点を置いてだ。
例え相手が引き篭もろうと、逆にボールを進んで持ちたがろうと、結局ゲームを支配するのはエル・ブランコであるという前提において――である。


そして最後に、“勝利すること”だが・・・

これが近年、特にここ2年――レアル・マドリードに最も欠けていた要素であり、同クラブを混乱させている一番の問題に思う。
後編では、この問題に丸々1記事を割くことになる。

さて、次回更新までに、もし当記事を現役のマドリディスタ諸兄が読んでくださっているとすれば、と仮定し、ちょっとした謎掛けをしてみたいと思う。


理想を追求しても、決して得られない勝利がある。

理想を穢すことでしか、その手に得られない結果がある。


さてこの時、あなたは理想と結果、そのどちらを優先するだろうか?

続く

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最もそういうことが起こってほしくないカードで、どうしてこういうことが起こっちゃうんでしょうかね・・・?

クラシコのあまり惨状に、一フットボールファンとしてこれ以上ないほど落ち込んでおりますorz

それぞれ1クリックしていただけると、再起のエネルギーになりますので・・・
何卒どうか、よろしくお願いします。
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【2011/04/30 23:58】 | フットボール叙事詩
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No title
junchang
以前僕も記事にしたことがありましたが、会長がソシオの選挙で選ばれている現実こそが何を望まれているかがはっきりとわかりますよね^^ペレス氏は以前インタビューでディステファーノ、プシュカシュ、ヘントらがいたチャンピオンズカップを5連覇していた頃のチームを目指していると言っていた事がありました。
また、当地のメレンゲたちもそれを望んでいるのだと。
僕は正直金満主義には辟易してまして、フェルナンド・イエロやラウル・ゴンザレスを平然と切り捨てた事実はまさにクラブとして僕の理想の反対を地で歩んでいるんですよね・・・・
グランデミラン以後の金満拝金主義の道を突き進んでいるレアルマドリッドはいつかしっぺ返しが来るのではないかと期待もしてしまっています^^(ものすごい偏見ですが)でもサッカー界にこういった存在は必要かもしれませんね!
レアルはいつでも「なんでも世界一」を目指しているクラブで選手達にとって観れば最終到達点として夢見ることができますので。って人のコメ欄で自論をたわごとってしまいましたが^^すみませんねぇ・・・・

Re: No title
白面
>junchangさん

いやいや、今回の記事は間違いなくjunchangさん向きと思っていました(笑)
興味深いご意見を拝見できまして、誠に嬉しい限りです。

そうなのです・・・

実際、現在のレアル・マドリードは、強烈なしっぺ返しを食らっている状態にあると思います。
これはもう、フットボールビジネスが拡大し過ぎた影響により、クラブがもはやサポーターの巨大な意思を特定の方向へ誘導できなくなっている・・・という部分もあるような気がします。

それにしても、あまりにもマネジメントとして破綻している。
それでいて、指揮官や選手には必要以上にプレッシャーをかけ、声高に責任を追求しようとする。

どうしても、この姿勢だけは許し難いのです。
これが矛盾でなくてなんだ、と・・・

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